生活に追われて慌ただしく暮らしているが気づけば下の子が産まれて11ヶ月が経過している。
自分の生き写しである。
今日ジョニーサンダースの命日なんだけどさ。
それとは本当に全く関係ないんだけど朝からハイスタの横山健さんのコラムを読んだんだよね。
今年の2/14にハイスタンダードのドラマーの恒岡氏が亡くなったことについて書いてあった。
その日自分は10代後半から東京で仲良くなった仲間4人で飲む約束をしていた。下北沢で一緒に住んでた福田、自分が子供できるまでやってたdrizzlingというバンドでドラムやってくれてた現lomaのギタリストのチバくん、そしていつもつるんでたドラマーの加藤さん。
この加藤さんが生粋のハイスタキッズでツネさんにめちゃくちゃ影響を受けてるドラマーなのだ。訃報を聞いたときまずに加藤さんの顔が思い浮かんだ、ぜってー今頃泣いてんだろな。。と。荻窪に集合して楽しく飲んでラーメン食って解散したけど青春時代の大切な何かを失った喪失感が漂ってた。
僕はハイスタンダードの大ファンてほどではないのだが、最初のバンド、The Gibocksを始めたときのドラマー、高久くんが中1か小6くらいの頃からハイスタにハマったのがきっかけで彼はベースやドラムをやるようになり、すでにギターに夢中だった僕は中学の頃から彼と一緒にバンドをやっていた。1999年とか2000年頃の話だ。
当時転校して引越し先でたまたま近所だった高久くんの部屋に入り浸っていた僕は当時すでにビートルズに夢中で、エアロスミスやツェッペリン、ジミヘンのコピーでギターの腕を磨き、クラッシュ、ピストルズやジョニーサンダースのパンク沼にハマりつつありながらも彼のおかげで自然とハイスタなど当時の日本のインディーズバンドに慣れ親しみ、コピーをするよう要求され、意に反して彼とバンドでハイスタやらブラフマンなど自分があまり興味なかった日本のリアルタイムのインディーズバンドの曲よく弾いたのだった(今ではめっちゃ感謝してる)。
高卒後、僕がロンドンにいる間も親友である彼とメールや電話のやり取りをし、日本に帰ったら最強のロックンロールバンドをやろうぜと誓い合った仲だった。当時流行っていたリバティーンズのピートとカールみたいなlikely lads的なバイブスだった。彼は彼でその為のバンドメンバーを東京で集めていた、福岡の北九州出身のどうしようもないパンクス達、岸川くんとヒロ。岸川くんは6時間くらい遅れて空港まで迎えに来てくれた、北朝鮮からテポドンが発射された日だった。
そして住んでた調布にたまたまあった電通大に通ってた前述の仲間たちを含むたくさんのイカれたメンツたち、僕のこと知らないのに高久くんに言われてロンドンに会いに来てくれた八木さん。リバプールを僕より先に訪れていたビートルズファンの木本とかんち(のちにdrizzlingをくむ)
などなどお腹いっぱいのメンツだった。
19歳で日本に帰ってすぐThe Gibocksを結成した。2.3回目のリハの後。高久、岸川くん、ヒロと僕。4人でスタジオ帰りに寄ったファミレスでバンド名を決める会議をしたのをいまだに強烈に覚えてる。
僕はThe Lonely Planet Boysにしよう!とずっと温めて続けていたバンド名を提案したが却下、岸川くんがいかにも北九州のハードコアパンクみたいな 陰核 というバンド名を提案してきた時は深夜のテンションも手伝って息ができないほど笑った。結局その時深夜のファミレスのホールを1人で回していたパートの女性が義母Xだという訳の分からない話の延長から大切なバンド名が義母エックス、ギボックスになった、いやなってしまった。
The Gibocksは始めはめっちゃくちゃ順調だった、初めてのライブは恵比寿のミルクだったと思う。いろんなライブハウスでライブをしたがすぐに高久くんが抜けた。
2年ほど経ったか経たないかの頃、彼は突如、地元に帰り犬を飼ってランクルに乗って彼女と公園に行きたい、みたいな当時の自分には全く理解できないパンクと真逆の夢を語り出した。
ドラマーだった高久くんが抜けた後ボーカルの岸川くんがドラマーになり僕はギターボーカルとなり、2枚目のアルバムをレコーディングしたがすぐに残された3人も価値観のズレなのか、将来のビジョンの違いなのか、確か下北沢の王将で3人で飯を食いながら解散宣言をした。
高久くんは地元に帰り僕はGibocksが解散した後も他のバンドに加入したり自分一人でやったりしながら手に職をつけなんとかサバイブしつつ、東京に根付いてしまい結婚して子供までいる始末だ。相変わらずあの頃の仲間たちとの縁は続けていて、いまだにあの頃の日々を糧にしていたりする。
この先の人生、下北沢で過ごしたあの日々のような楽しい事はもうないのかなと思いつつ、36歳になっても変わらずロックンロールは好きなままだ。
今日はジョニーサンダースの命日だし、子供の事などで家から出れないからずっとジョニーサンダースを聴こうと思ってたんたが、先日ハイスタの新曲I'm A Ratを聴いたときの感傷をひきづったまま、今朝方たまたま子供を寝かしつけながら横山健氏のコラムを読んでしまった。
オッさんになり涙腺や感情のツマミが壊れており、おかしな感情になってしまった。なぜこんな文を書いたかというと、僕も昔の大切な思い出を忘れないうちに文章にでもしておいて、いつでも引き出せる場所にしまっておけばよかった、とか思っていまこれを綴っている。
生きてる限りどんなにダサくてもまたGibocksでもdrizzlingでも、パンクでもやりたければやれるんだなと勇気づけられた。まあ今日という日でさえ家から出る事すらままならないんだけども。
家から出れなすぎて、ベランダでビールのんでハイスタとジョニー聴いてブログかいてるというね。でもまだ生きてるしなんとかなるかなと思ったり。
ありがとうハイスタンダード、
ありがとうジョニーサンダース。
ありがとう友人達。
こないだスペシャルズのテリーが亡くなってスペシャルズを聴く事がふえた。
最近しばらく聴いてなかったが、聴いているとたくさんの思い出が蘇ってきた。
色褪せていく一方の思い出なので一応書いておく。
ビートルズから始まった僕のロックンロール熱はジミヘンやエアロスミスなどを経てだんだんパンク方面へ突き進んで高校生の頃僕はパンクスだった。
鋲ジャンにスパイキーヘア、パンクファッションに夢中で、当時リアルタイムで活動してたバンドではダントツでランシドが大好きだった。
クラッシュやランシドからスカレゲエを聴き始め、スペシャルズを聴き出したのは高校3年生だったかな、
2005年、高卒後はロンドンに行った。フラットを探す為あちこち歩いたりバスに乗っていろんな町を見た。その時初夏のロンドンでスペシャルズを聴きながら見たロンドンの風景をなぜかすごく覚えている、イギリスの町並みとスペシャルの音楽、慣れない英語で電話して部屋探ししたあの日々のBGMとして完璧だった。
あの頃は視野があまりにも狭く自信しかなかったので自分の将来の音楽の方向性しか悩みがなかった、恐ろしいほどのアホであった。
懐かしい写真を見つけたので貼っておこう、
2006年にロンドンの確かSohoあたりのパブでrancidの大大大好きなLarsに偶然会い同席させてもらった時の写真だ。懐かしくて泣けてくる。
ランシドの話になってしまったがスペシャルズはこれからも青春の思い出とともにずーっと聴き続けるだろう。
テリーよ安らかに。
人間なので欲がつきない。
子供の頃まわりが当たり前のように持っていて、自分は持っていないものがとりあえず欲しくなった、しかし手に入らない場合それらを憎む、嫌いになるという防御反応で欲求を消していた気がする。そしてへそ曲がりが出来上がった。
子育てと仕事、生活の忙しさや昨今の電気ガス水道代事情を鑑み、兼ねてから欲しかったカメを諦めざるをえない状況である。
人間の子供と妻の方が大切なんだと自分に言い聞かせている、足ることを知らぬ自分が悪い。
今いるカメの今後を考え夢を広げたい。
モリイシガメ、メスが2匹。下の個体はアメリカCB。Twitterで知り合った遠方のモリイシガメ飼育者の同便アメリカCBのオスとトレードする予定だ、ペアが揃うので自分が生きてるうちに繁殖させるのが夢だ。
カブトニオイガメ、ペア。メスはもう13歳程で毎年状態の良い無精卵を産んでいる。オスはまだ性成熟していないかもしれないが、この種も大好きなので繁殖できたら嬉しい。
フロリダアカハラガメ、今飼育してる中からメスが出ればペアができる、繁殖できなくても成長すればするほどカッコいいカメなのでとにかく楽しみ。
ニホンイシガメのおチビ
死なせてしまった前の子の後悔を反映させ慎重にそだてている。とにかく可愛い。オスになればペアができる。相手は片腕の老成個体だが。
他にもたくさん成長が楽しみなカメ達がいる。
足る事を知ろう。
ヤモリは別腹である。